本当の親鸞聖人の教えを知るには

親鸞聖人と言えば歎異抄、歎異抄といえば親鸞聖人、と言われるほど切っても切り離せない関係が「親鸞聖人」と「歎異抄」です。
しかし、歎異抄は、親鸞聖人の書かれたものではありませんから、親鸞聖人の教えを知ろうとすれば、それはあくまで親鸞聖人の主著である「教行信証」よらなければなりません。

では、教行信証とは、いったいどんな本なのでしょう。

正式名称を『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』といい、「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」「化身土巻」の6巻から構成されています。
浄土真宗の「根本聖典」とか「御本典」(ごほんでん)といわれます。

『教行信証』を一読して、だれもが驚くのは、その引用文の多さです。

書名に「文類」とあるように、「私釈」といわれる聖人の作文は少なく、そのほとんどが、お釈迦さまの説かれた一切経、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)や天親菩薩(てんじんぼさつ)など、菩薩と言われる方の書かれたもの、また善導大師(ぜんどうだいし)や法然上人など、高僧方の書物の引用です(浄土真宗のお経は、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経です。それらの経典からの引用が非常に多くあります)。

「文類」とは、それら古今のお聖教(仏教の書物)から要の文を集めたものということです。
「親鸞さらに私なし」が聖人の常の仰せでしたが、いかに私見(自分の考え)を交えず、正確にお釈迦さまの真意を明らかにされたかがお分かりだと思います。

成立は、親鸞聖人が関東でご布教しておられた52歳ごろといわれますが、その後も常に手元に置かれ、生涯、加筆修正された畢生の大著が教行信証です。

親鸞聖人のお歌には、

我真宗の 組織(くみたて)は
この時ここがまことぞと
教行信証 六巻に
真意を開き 著わさる

と書かれてあります。
関東ご布教中、稲田の草庵で『教行信証』六巻を著された時、「この中に説かれている教えこそ、真実である」と、親鸞聖人の真意をそこに著されたのです。

浄土真宗の教えか否かを判定する基準は『教行信証』であり、親鸞聖人の本当の御心は、『教行信証』を読まねば、もう分かりません。

不朽の名著である歎異抄も、聖人の書かれた『教行信証』によってその真意がひらかれるのです。
親鸞会が、親鸞聖人の教えを皆さんに正確に知っていただくために、必ず親鸞聖人のお言葉をお示しして、その意味を詳しく解説するのは、そのためです。

蓮如上人のご布教の精神に学ぶ

今から約500年前、室町時代に活躍された蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを、正確に、迅速に、一人でも多くの人に徹底することにご生涯をかけられた方でした。
いかに親鸞聖人のみ教えに忠実であったのか、よく表れているエピソードがあります。

「蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、『是れはいかようの子細にて候』と申されければ、仰せられ候、『我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候』と仰せられ候」(御一代記聞書)

蓮如上人に、ある人が尋ねました。
「親鸞聖人がこういうことをなされたと聞いたのですが、どういうわけなのでしょうか」
「この蓮如も理由は知らぬ。だが、どんなことでも、親鸞聖人のなされた通りにすればよいのだよ」
とお答えになられたのです。

蓮如上人は、一切私見を交えられず、正確に、親鸞聖人のみ教えを伝えられました。
「一器の水を一器に移すが如く」と形容されるように、手垢をつけずにそのまま教えてくださったのです。

有名な蓮如上人の御文章にある「聖人一流章」の冒頭にも、そのご布教の精神が表れています。

「聖人一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは、信心をもって本とせられ候」

「聖人一流の御勧化のおもむきは」とは、「親鸞聖人が一生涯、教え勧めていかれたことは」ということです。
どの御文章にも、蓮如上人の個人的な意見は見られません。常に、親鸞聖人の教えを皆さんに伝えていかれたことがわかります。

その蓮如上人が、歎異抄の奥書に、

「右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり」
(この『歎異抄』は、浄土真宗の大事な聖教である。仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬものである)

と書かれたことは、よほどのことと受け止めなければならないでしょう。

安易な解釈で、歎異抄を読んでは、あらぬ教えの誤解を生み出し、蓮如上人をまた悲しませることになるでしょう。

親鸞会は、蓮如上人のご布教の精神にならい、親鸞聖人のみ教えを正確にお伝えすることに最も重きをおきます。

それが正しい親鸞聖人の教えであるかどうかは、あくまで聖人の主著である『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)によって明らかになされなければならないのです。

親鸞聖人のご布教の精神に学ぶ

親鸞聖人のご布教の精神を、親鸞聖人の常のお言葉に学んでみましょう。

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり」

親鸞聖人は、常にこうおっしゃっておられました。

「浄土真宗」とか、「親鸞聖人の教え」と聞くと、何か独自の教えを考え出されたように思うかもしれませんが、そうではありません。
「更に珍しき法を弘めず」とは、「親鸞の伝えていることは、決して珍しい教えではありません」ということです。

珍しい教えとは、今までだれも説かなかった新しい教えのことです。
親鸞聖人は、そんな珍しい教えを伝えられたことは一度もなかったのです。

では、どんな教えを伝えられたのでしょうか。
「如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」と言われています。

如来の教法とは、釈迦如来(お釈迦さま)の教え、仏教のことです。

約2600年前、インドで活躍なされたお釈迦さまは、35歳で大宇宙最高の「仏」というさとりを開かれ、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、教えを説いていかれました。
それが仏教です。

お釈迦さま一代の教えは、すべて書き残され、その数は7000冊以上に上り、一切経といわれています。

その一切経を何回も読み破られた親鸞聖人が、お釈迦さまの説かれたことは、阿弥陀仏の本願唯一つであった、と正信偈に断言しておられるのが、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

のお言葉です。

その仏教を「間違いないと、親鸞知らされたから、皆さんにもお伝えしているだけなんだよ」とおっしゃるのです。

親鸞、更に私なし」

ともおっしゃっています。

いかに親鸞聖人が、自分の考えを入れず、お釈迦さまの教えられた通りに伝えていかれた方かがわかります。

歎異抄を読むとき、自分の考えを入れて、教えを曲げて理解すれば、「更に親鸞珍らしき法をも弘めず」と伝えていかれた親鸞聖人が悲しまれます。

親鸞聖人の伝えていかれたことは、一つしかありません。
その一つのことを正しく知るには、親鸞聖人が筆を執って書かれた『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)によるしかないのです。

「歎異抄」の真意を明らかにする親鸞会

浄土真宗親鸞会では、親鸞聖人のお言葉を掲示し、その正しい意味を皆さんにお伝えすることを第一としています。
高森顕徹先生の法話会が、毎月、富山県射水市の親鸞会館で開かれていますが、その時も、必ず親鸞聖人のお言葉を皆さんにお示しして、その意味を解説されます。

歎異抄のお言葉について説明されることがありますが、その解説も、あくまで親鸞聖人が筆を執って書かれたお言葉によって、その真意を明らかにされます。
芸術作品であれば、読む人や観る人の自由な受け止め方が許されます。
一般に古典として扱われる「歎異抄」は、あくまで仏教書ですから、自由な解釈というものは許されません。

「私はこう思う」
「私見では……」
「自見によれば……」
「~という意味ではないかと思われる」

というような、著者の思いを歎異抄の解釈に入れてはならないのです。

親鸞聖人90年の教えは、すべて主著である「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)に書き残されています。多くの著作を遺された聖人でありますが、すべて「教行信証」におさまります。
聖人の肉声をそのまま伝える、と言われる歎異抄も、親鸞聖人の教えと反する解釈をしては、「聖人の教えを正しく伝えたい」思い一つで書いた著者の心に反するものになるでしょう。

あくまで、親鸞聖人の書かれた教行信証を物差しとして歎異抄を読まなければ、誤解を正す目的で書かれた歎異抄が、一層の誤解を生み出す結果となりましょう。
既に、多くの誤った解釈が蔓延している中で、歎異抄の真意を、親鸞会は、親鸞聖人直筆のお言葉で明らかにしているのです。

カミソリ聖教と言われる「歎異抄」

古今の名文として誉れ高い『歎異抄』は、親鸞聖人の肉声をそのまま伝える響きと拡張を持ち、読む者を魅了してやみません。
「歎異抄を読んで、気持ちが楽になった」という人が多いのもうなずけます。

しかし、「歎異抄」は古来カミソリ聖教(しょうぎょう=仏教の本)ともいわれ、危険な書としても知られています。

室町時代に活躍された浄土真宗・中興(ちゅうこう)の祖、蓮如上人は、歎異抄の奥書に、

「右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり」
(この『歎異抄』は、浄土真宗の大事な聖教である。仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬものである)

と、仏縁のない者には、みだりに読ませてはならないと封印されたほどでした。

大人が持つと重宝なカミソリも、子どもが持つと、自分も他人も傷つけ大けがをするように、他力信心と、親鸞聖人の教えをよく理解している人が読まないと、「歎異抄」はとんでもない読み間違いをするところが多いからです。

「歎異抄」の解説書は世にあふれ、仏教学者のみならず、思想家や作家など、多くの人が、その解釈に挑戦しています。
しかし、第三章冒頭の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」に象徴されるように、全編が謎めいた逆説に満ちているのが歎異抄の特徴でもあります。

そのため、読み手の理解によって、歎異抄は思い思いに解釈され、親鸞聖人亡き後、出現した異説を歎いて書かれたはずの歎異抄が、また親鸞聖人の教えを誤解する元凶となっている事実も否めません。
蓮如上人が、そのような事態を予測され、奥書を記された御心が今になって身に染み入ります。

誤訳相次ぐ「歎異抄」ですが、その真意はあくまで「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)など親鸞聖人直筆の書によらねばならないことは、言うまでもありません。
歎異抄の著者の心情を思えば、伝えたい聖人の教えがそこにあったのは、間違いないことなのですから。

歎異抄と齋藤孝

齋藤孝氏は、1960年、静岡生まれ。

東京大学法学部卒業し、現在は、明治大学文学部の教授として活躍中。
専門は教育学、身体論、コミュニケーション論で、齋藤氏の提唱する教育論やビジネス論・身体論などは、総合して「齋藤メソッド」と呼ばれています。

著書である『声に出して読みたい日本語』(2001年、草思社)は、シリーズで250万部を超えるベストセラーとなり、毎日出版文化賞特別賞を受賞しています。

その齋藤氏が『声に出して読みたい日本語 音読テキストシリーズ』第3弾に選んだのが『歎異抄』でした。
数ある名著の中から『歎異抄』を選んだ理由について、こう書かれています。

「『声に出して読みたい日本語』の音読シリーズの第3弾として『歎異抄』を選んだのは、歎異抄の言葉が、私たちの心に素直に入って、深いところへとどまる力を持っていると感じたからです。

(中略)

歎異抄を声に出して読むと、親鸞が生の声で自分に語ってくれているという感触が伝わってきます」

齋藤氏は親鸞聖人を、「日本の歴史に残る大思想家、宗教家」であり、その教えは「やさしさに満ちた教え」と称賛しています。
親鸞聖人のおられた当時に思いを馳せて懐かしそうにこうも書いています。

「親鸞の生きた時代は、庶民は戦乱で家を焼かれ、衣食に窮し、塗炭の苦しみをなめていました。
末世末法のこの時代、仏教は形骸化し、僧侶は貴族にとりいって加持祈祷に汲々とするばかり。
途方にくれる庶民。
親鸞はこのあわれな庶民の申し子のごとき存在でした。
自ら愚禿親鸞と称し、教化の旅に明け暮れました。
その足跡は越後、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)、武蔵、相模(さがみ)、甲斐、三河、近江に及び、すぐれた座談で人々を教化したと言われています。
農家に立ち寄った親鸞の炉辺夜半(ろばたよわ)はどんなものであったのでしょうか」

(『声に出して読みたい日本語』音読テキスト「歎異抄」より)

そして、「あとがき」ではこう締めくくられています。

「この(歎異抄の)言葉そのものに出会うことができなかったとしたら、おそらく、日本人にとっては非常に大きな損失であったでしょうし、このことがあるおかげで、親鸞と出会うという感覚を
私たちは持つことができるわけです。

(中略)

親鸞は、本当の意味での教育者だと思います。
この本で親鸞の言葉に出会った感動を、繰り返し読んで定着させ、技となしていただければ幸いです」

齋藤氏がこのように絶賛している歎異抄、ぜひ声に出して読みたいですね。

歎異抄と倉田百三

「(歎異抄は)文章も日本文として実に名文だ。国宝と云っていい」倉田百三(くらたひゃくぞう)

『出家とその弟子』がベストセラーとなり、一躍、有名になったのが倉田百三(1891~1943年)。

その作品は、当時(大正時代)の青年たちに熱狂的に支持され、世界各国で翻訳されました。

フランスの文豪でありノーベル賞作家のロマン・ロランが絶賛し、倉田百三に手紙を送ったことでも知られます。

その倉田氏は、歎異抄について、かく語っています。

「ニイチェでも、トルストイでも、ボードレールでもこれ(歎異抄)を読んだら驚くだろう。トルストイの如きは八十二歳の家出後に於て、死なずに、これを読んだら、更に転心して念仏に帰しはしなかったであろうか」
(『法然と親鸞の信仰』(倉田百三選集4)春秋社より)

「日本にこういう文書(歎異抄)の存在することは世界に誇るべき事であり、意を強くするに足る。そして日本語と文章との表現力の如何にすぐれたものであるかを立証しているものである」
(倉田百三著『一枚起請文・歎異鈔 法然と親鸞の信仰』大東出版社より)

「一枚起請文(いちまいきしょうもん)と歎異鈔とは、人間のたましいの中に灯をともすような書きものだ。

深い深いたましいの海の底に錘をおろすような文章だ。
これを読むと我々はいつの間にか、仏智の不思議と、見えない手とが人間の生活を支えているのを感じるようになる。

歎異鈔よりも求心的な書物は恐らく世界にあるまい。

此の書には、又、物柔らかな調子ではあるが、恐しい、大胆な、真剣な思想が盛ってある。
見方では毒薬とも阿片とも、利刃ともとれる。
がそれは宗教の密意を取り扱ってあるからだ。
そして何処までも敬虔な、謙虚な、しかし真理のためには何ものをも恐れない態度で書かれているのである。文章も日本文として実に名文だ。国宝と云っていい」

※「著者の言葉」より

(倉田百三著『一枚起請文・歎異鈔 法然と親鸞の信仰』大東出版社より)

歎異抄と三木清

「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる」三木清

歎異抄に魅了された一人に、三木清(1897~1945年)がいます。

英文学者であり、文芸評論家の本多顕彰氏は『歎異抄入門』の中で、三木清が夫人の喜美子さんを亡くしたときことを次のように記しています。

「三木清の奥さんが亡くなった日の夕方お悔やみに行くと、うす暗い仏間の仏壇のまえでお経をあげている坊さんの後ろに西田幾太郎博士と三木清が並んで端座していた」

「西田博士(西田幾多郎)は『善の研究』の中で歎異抄を感銘深く語っており、博士の影響を受けた倉田百三が親鸞を題材にして『出家とその弟子』を書いているくらいだから、(西田幾多郎)博士が仏壇のまえにすわったにしてもふしぎはないかもしれないが、あの夕には、それすら私には奇異に感じられた。

三木清の心情にいたっては、私はまったく量りかねたのである。三木清ともあろうものが仏壇のまえにすわって手を合わせるなんて、いったいどういう了見なのだろう、奥さんが死んでセンチメンタルになったのだろうか、それともお芝居であろうか。

いや、それにしては、彼の表情は真剣すぎた。彼の表情は長いあいだ私にはナゾであった」

三木清は、当時、唯物史観などを研究していました。

唯物論とは観念論に対するもので、唯物論者は「宗教はアヘンである」と言って「宗教」を非難していました。

ですから、唯物史観を研究していた三木清が“アヘンである”と非難していた宗教、浄土真宗に対して頭を下げている姿が不可解でならなかったわけです。

しかし、本多氏の同書には、次のようなことも書かれてありました。

「それからずっと後に、彼は、何の前置きも、何の説明もなしに、「ぼくは親鸞の信仰によって死ぬだろう」と言った。
私はほんとうにびっくりした。
合理主義の理論家三木が、私の抵抗しつづけてきた、あの地獄極楽の浄土真宗の信仰によって死ぬなんて!」

これが決してウソでも冗談でもなかったことが、その後、アメリカ軍によって投獄され、獄中での生活を余儀なくされた三木清の遺稿によっても知ることが出来ます。

「戦争の終わりごろには、私は新聞を取っていなかった。
終戦の玉音放送を聞くと、郵便局へかけつけて東京の出版社へ速達で借金を申し込んだくらいだから、たぶん、紙代が払えないために新聞を読んでいなかったのであろう。
それで、三木清や戸坂潤が獄死したことを配給所にあった古新聞によって知った。

私には、獄中で念仏をとなえながら息を引きとる三木清の姿は想像しにくかった。
しかし、三木清は、たしかに親鸞の信仰によって死んだ。

彼は未完ではあるが、彼らしい見事な『親鸞』を書きのこして逝ったのである」
(同)

最後に、三木清自身の著作から、彼の言葉を紹介しておきましょう。

「元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する『正信偈』とか『御文章』とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。

お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。
こうした子供の時からの影響にも依るであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。

そしてこれは今も変わることがない。

いったい我が国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遥かに親しみが感じられるのである。
いつかその哲学的意義を闡明してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。

後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。
高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった」

(三木清『読書と人生』新潮文庫より)

歎異抄と西田幾多郎

歎異抄に魅了される人は、数多くいますが、日本を代表する哲学者の一人、西田幾多郎もその一人にあげられます。

第二次世界大戦の末期、西田幾多郎は、B29戦闘機の焼夷弾で次々と焼かれる町の光景を目の当たりにして

「いっさいの書物を焼失しても歎異抄が残れば我慢できる」

と語ったと言われます。

西田幾多郎(にしだ きたろう)は、1870年、現在の石川県かほく市森(旧宇ノ気町森)に生を受けました。

西田幾多郎が散策した琵琶湖疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれています。

西洋哲学と東洋の仏教哲学の間に身を投じ、『善の研究』は日本で最初の哲学書と言われており、日本哲学の創始者と言える人物です。

圧倒的な西洋文明の影響下で、自分が生きることの意味を問い続け、若くして禅の世界に入りました。

やがて、4人の子供と妻、親友などに先立たれました。

37歳のときの著作、『我が子の死』に、次のように書いています。

「死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」

人生の悲哀を味わい尽くした晩年、浄土真宗の信仰への傾斜が深く、最後の論文を書き上げたのは、日本の敗戦が間近に迫った昭和20年でした。

個人的な人生の悲惨さだけでなく、国家の危機も深刻な問題である中で書き上げられた論文は、最後に次のような文章で結ばれています。

「私は、これから浄土真宗的に国家というものを 考え得るかと思う。」

西田幾多郎をも魅了した歎異抄の言葉の威力を痛嘆せずにはおれません。

歎異抄と司馬遼太郎

「無人島に一冊の本を持っていくとしたら何を持っていくか?」

そう問われて即座に「歎異抄」と答えたのは、作家・司馬遼太郎さんでした。

太平洋戦争の真っ最中、司馬遼太郎さんのところに召集令状が届き、兵隊に行くことが決まると、
「死んだら、どうなるのか」
という底知れない不安が、わきあがってきたと言います。

人に聞いても分からない。

そこで、書物の中に解決を見出そうと、書店を訪ね歩いているうちに、彼の目をひいたのが『歎異抄』であったのです。

一体、歎異抄のどこに惹かれたのか、晩年の講演で、次のように語っています。

「非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね」

「理屈も何もありませんが、どうも奥に真実があるようでした。
ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、これでいこうと思ったのです」

司馬遼太郎さんは、死亡率が高い戦車部隊に配属されました。

毎日、死と向き合いながら、「奥に真実があるよう」だ、と直感した歎異抄を肌身離さず持ち歩き、暇さえあれば読み返していたというのです。

司馬遼太郎さんと言えば、『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂の上の雲』『街道をゆく』など、数多くの歴史小説や随筆を執筆し、昭和を代表する作家です。

そんな司馬遼太郎さんが、執筆活動中も座右の書としていたのが、やはり『歎異抄』でした。

「大変な名文でして、私は若いころからこの本を愛好しています」

歎異抄の美しい文体、その内容が、著作に大きく影響したことは言うまでもないでしょう。

司馬遼太郎さんに限らず、多くの作家、哲学者、思想家など、あらゆるジャンルの人々を魅了しているのが歎異抄です。

それほどまでに多くの人を虜にする歎異抄とは、どんな本なのでしょうか?
歎異抄は、約700年前、親鸞聖人の高弟・唯円(ゆいえん)によって書かれたものといわれています。

親鸞聖人の亡くなられた後、親鸞聖人の教えられたことと異なることを言いふらす者が現れ、惑う人々がたくさん出たことを著者が嘆いて、その誤りを正そうとしたものです。

タイトルの「歎異抄」は、まさに、(親鸞聖人の教えと)異なることを歎いて書いた本、ということです。

鴨長明の『方丈記』、『歎異抄』、吉田兼好の『徒然草』の順で、ほぼ60年間隔で成立しており、これらは三大古文として知られています。

なかでも歎異抄の文体の魅力に惹き込まれる人も多く、冒頭で紹介した司馬遼太郎さんは、

「明治以前の文章家のなかで、平易達意の名文家は、筆者不明の「歎異鈔」と室町末期に本願寺を中興した蓮如上人(白骨の文章)と宮本武蔵のほかにはみられない」

と歎異抄を上げています。